初めての岩手
- 松下佳介

- 1 日前
- 読了時間: 4分
こんにちは。久々の日記です。
5月に入り実施設計が大詰めになり、6月より公共工事の仕事にも着手して忙しくなってきました。今年は梅雨らしい梅雨で湿度も高くて身体が若干重い気がします。そのくせ気温が高いせいか身体はムリをしがちです。
仕事の進捗や建築のお話しも綴りたいと思いつつ今回はちからを抜いて旅の話しを書きたいと思います。
先月のこと。岩手は平泉の中尊寺に行って参りました。
従姉妹にJRの割引チケットを貰っていたのですが使用期限が6月で終了するため、思案をして思いついたのが金色堂。もうすでに何度も行こう行こうと思いつつ距離の遠さ故に勝手にリストからはじいてしまっていました。
しかし、調べてみたら岩手といっても平泉は福島よりではありませんか!頑張れば日帰り旅行もできる距離だとわかりました。(栃木から)
金色堂を知ったのは恐らく高校生の頃か大学生の頃。大学の日本建築史の教科書には確実に載っておりその名の通り金色に光るお堂というだけでわくわくしたものです。金箔に包まれたお堂は雨風にさらされないように、お堂を守るための建物がそれを覆っています。
その名も覆い堂といいます。私が見た教科書は、すでにコンクリート造に改築されたものでしたが以前は当然のことながら木造の覆い堂で金色堂は守られていました。

中尊寺は訪ねてから初めて知ったのですが、広大な敷地の中にいくつものお堂がある、寺町のような場所だったのです。平泉駅に降り立って市が運営しているバスに揺られて5分程度。境内の入口に到着します。入口には弁慶の墓があって、お墓にお参りしてから境内を奥に奥に進みます。途中、弁慶のお堂や薬師堂、地蔵堂などに立ち寄って本堂に辿り着いたのは40分近くたってたのでしょうか。
途中で大雨にあってしまい、薬師堂で雨宿りさせていただきました。薬師堂で旅の方としばしお話しをして小雨になるのを待ち、再び足を運びました。


東北の歴史に詳しくない私は源義経は若い頃に母から引き離されて、ここ平泉で過ごした事もあったのを知りました。金色堂を建立したのは奥州藤原氏の清衡ですが基衡、秀衡と3代にわたり平泉の地を理想郷として育てあげていきました。
源頼朝と兄弟でありながら追い求める理想が違ったことで仲たがいした義経。打倒平家として奥州の地、以南を征服した頼朝にとって奥州の地はどうしても落したい領土でありました。義経の見方と思えた後鳥羽上皇が頼朝側につくことで天皇家の血を守ろうとしたのです。その事によって追い詰められた義経は逃れ逃れて幼少の頃に世話になった藤原秀衡をたよって平泉に辿り着いたという事でした。
秀衡は奥州において力のある総大将でしたが、亡くなって4代目の泰衡に代わってからその勢力は一気に落ちていきます。頼朝がそれを見逃さず、泰衡に義経を引き渡すように何度も手紙を送りつけ、ついには義経と弁慶はじめ主従を自害に追い込み、義経の首を泰衡は鎌倉に送ったそうです。なんともはかない歴史です。
素直であるために。兄、頼朝のように力でねじ伏せる政治を出来なかった。家来や女性子供にも情が厚く慕われていた。そんな義経を想うと人間らしくてよりいっそう好きになりました。
武蔵坊弁慶は和歌山・田辺の出身とされる伝記が残っており、私も子供の頃から話しを聞かされて育ちました。そんな弁慶と義経。故郷を離れた平泉の地で最後を迎えたのだと思うと灌漑深い想いでした。

これが金色堂をお守りしていた旧覆い堂
木材は通常の組み方ではなく、中のお堂に当たらないような組み方がされています。覆い堂ですら美しいプロポーションを保っているのは当時の大工の技量の高さがわかります。

外回りの梁を桁(けた)というのですが、そこに斜めに梁が入っているのがわかります。
その斜め材に載せるようにしてさらに内側に梁がかかっているのが見えます。これは内側に柱を建てずに広いスペースを確保してお堂を守る役目をしています。さらにはメンテナンスのための足場にもなるのでは?と私は想像しています。
覆い堂を新しくする際の修復の様子がビデオで流れていました。建立当時の技術や材料を復元する作業はとんでもなく長い時間を要することで素晴らしい技術の継承です。
今回の旅は平泉を二日間かけてまわり、理想郷にしようとした毛越寺(もうつうじ)や義経の高館義経堂、無量光院跡などを廻り歴史を感じる事が出来ました。また美しい平安建築にも触れる事ができました。
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